弘前学院聖愛中学高等学校のあゆみ
本校は、キリスト教プロテスタント主義の学校です。
ここでは、130年を超える歴史を持つ、聖愛の沿革をご紹介致します。
弘前教会の牧師であった本多庸一は、函館遺愛女学校ハンプトン女史と協議の上、キャロライン・ライト夫人の寄付による基金の一部をもって、教会内に女学校を開設。教師は2名、生徒十数名のうち男子2名がまじっていた。
校名はミセス・ライトにちなんで来徳女学校と称し、教育の実務は山鹿元次郎が担当した。
長谷川誠三は数人の同志と女学校設立基金を募り、元大工町に校舎を建築した。
弘前女学校として設立認可、生徒は小学科、本科、あわせて七十余名となった。
坂本町校舎を新築、移転。生徒164名、教員12名となった。
第13代校長、E・アレキサンダーが設立者を兼ね、米国美以婦人伝道協会の経営となった。
第14代校長ミス・ラッセル着任。以後13年余にわたる在任期間に学校はめざましく発展した。
1929年に立てられる坂本町新校舎の建設資金はラッセルの8年にわたる要請により宣教師会からもたらされた。
ラッセルは県立弘前中学校の英語講師も兼任している。
坂本町に校舎を新築する。
現在多くの人の知る聖愛の坂本町校舎はこのときに建てられたものである。
御真影拝受、同年10月婦人伝道協会の援助を辞退し自立経営となった。外国からの資金援助を拒絶するというキリスト教教育同盟会の申し合わせであった。学級増、定員増で対応した。
日米関係が悪化、ミス・カーティス、ミス・テイラーは本国の引き上げ命令により帰国。太平洋戦争がおこり学校は戦時色におおわれる。
空襲に備えて校内の備品・器具の疎開がはじまった。
弘前市は防空防火のため、建物疎開を計画したが本校の建物を取り壊し広い道路とすることが含まれており、学校側は学校を軍需工場とする計画もそえて取り壊し中止の歎願を繰り返した。
最後の陳情予定は8月15日午後1時。この1時間前、戦争が終わった。
戦争が終わり、文部省が私立学校における宗教教育を許可したことをうけ、校名を弘前女学校から聖愛高等女学校とする。
同年、第19代校長小田信士就任。創立60周年記念行事が質素ながら希望につつまれておこなわれた。
3年制の新制中学校が発足。
本校は高等女学校の下学年がそのまま中学校となり教員組織もそろっていたので多くの優秀な生徒が集まり、大部分が翌年発足の聖愛高校へと進んだ。また、ミス・バイラーの帰任をはじめ、婦人宣教師が次々に来任した。
聖愛高等学校となる。翌年、中高の在籍数の合計が1000人を越える。
弘前学院短期大学発足。以後は幼稚園、中学、高校の名称に弘前学院が加えられた。
四年制大学、弘前学院大学文学部英米文学科・日本文学科の発足。
原ヶ平新校舎に移転。
聖愛中学校閉校。
創立百周年を祝う。
聖愛幼稚園閉園。
弘前学院大学に社会福祉学部設置。文学部ともに男子学生にも門戸を開く。
聖愛高校共学になる。
大学院社会福祉学研究科を設置。
看護学部と大学院文学研究科を設置
聖愛中学校開校。
創立百三十周年を祝う。